本殿を建築した大工棟梁は、溝口村の高見(池上)善八で武蔵国妻沼(めぬま)村(埼玉県妻沼町)の宮大工で、武州・上州で名匠として名が知れ渡っていた林兵庫正清の門人となり、 長年にわたって腕を磨き名工となり、妻沼の聖天(しょうてん)堂を初めとして立派な神社を建築しているという。 善八は故郷の宮の久保に帰ってから、西春近の法音寺本堂や松本市の全久院(焼失)などを建築している。
熱田神社建築後26年の寛政二年(1790)に歿しているが行年については明らかでない。
彫物師は、東上州花輪在上田沢村(群馬県勢多郡黒保根村)の関口文治郎(1730~1807)とその弟子5人である。
文治郎は、上州の左甚五郎と言われた名匠であった。桐生史談会の資料によると、栗生神社、大間々町光栄寺本堂を始め、桐生天満宮の彫刻など関東一円に彫物師文治郎の名をとどろかせたという。
文治郎の墓は、関口家に近い山の斜面観音堂台地にあって、墓石に刻まれた文化四年七月十七日歿 行年七十七歳から推定すると、熱田神社の彫刻は31~33歳の青年工匠の時であった。
善八は、林兵庫の門弟として長年にわたり修業した腕をこの熱田神社で発揮する機会に出会い、内弟子5人と仕手大工として近郷近在の腕利き大工12人と共に建築に当り、 上州当時に知り合いとなった名匠、関口文治郎を招いて彫刻方面の担当を依頼し、弟子5人を引き連れて来た文治郎とその弟子の手によって彫刻されており 熱田神社は名匠二人が建築と彫刻との均整調和を工夫した創意結晶の作品といえる。
彩色を担当したのは、森田清吉で武州久保島村出身の粉色師で本殿彫刻の彩色を担当し、古来の岩絵具を以って彩色している。 関口文治郎師か、林兵庫師に関係した人であろうが経歴など詳細については不明である。